2024年4月21日日曜日

別に年収か1000万円でなくても

新NISAが始まって投資を始める人がかなり増えているという。日経平均も一時4万円を超えていた。年初から数十パーセントも上がっているということなので、すでに多くの人が利益を得ていることになる。羨ましい。僕も、新NISAが様々なメディアにとりあげられていたので教養として勉強していた。仕組みもある程度は理解していた。これは良い制度改正だとは思いつつ二の足を踏んでしまった。当面は使う予定のないお金を去年のうちににぶっこんでいれば、利ざやで高級フレンチのコースくらい食べられたかもしれない。ワインのペアリング付きで。
今までありとあらゆる投資で痛い目を見てきたのでどうしても勇気が出なかった。個別投資、投資信託、FX、仮想通貨、保険商品、もれなく損している。どれも僕が手を出した途端それまでのチャートの傾向と逆の動きをし始めた。そして、下がっていくグラフが怖くなって手を引くと元通りの流れに戻る。高値で買って安値で売る、という綺麗な負け。そんなことを繰り返してきた。トラウマである。だから新NISAも、どうせ今回も損をするのだ、という自己暗示を解くことができず機を逃してしまった。

つくづくお金とは縁のない人生だった。父はファイナンシャルプランナーの一番むずかしい資格を持っていて、僕に度々アドバイスをくれたけど、彼の未来予想はことごとく外れ、全て裏目に出た。けれど、僕には変な金運はあって野垂れ死ぬ寸前で神がかり的な奇跡が起きて毎回救われた。
キッチンカーを始めるときもそうだ。サラリーマン時代の貯金が底をつきそうなときに、友達から教わった仮想通貨が異常な値上がりをした。残金を注ぎ込んでいくらか利益が出た。起業の費用はそれでまかなえた。
(その後、キッチンカーが軌道に載ると、塩漬けにしていた仮想通貨は下がり、ばっちりマイナスに転じている)
40代になるまで100万円以上お金が貯まったことがないので、将来への不安はそんじょそこらの人々には負けない。人並みに暮らせるようになった今でも、お金の使い方はほとんど以前と変わらない。

福祉の発達した北欧諸国とは違って、日本は子育てにも、老後にもお金がかかる国だ。社会保険料の現役世代の負担は増えていく一方で、年金もおそらく十分にはもらえない。お年寄りでさえ「自分の葬式代くらいは」と死んだあとの心配をしている。これではお金がないと寿命が来ても葬式代と墓石代のない人は死ねない。
「老後2000万円問題」みたいなメディアの煽り記事を目にすると、出版社の思惑通りに不安感を掻き立てられている。

何年か前に『F I R E(Financial Independence, Retire Early=経済的な自立、早期リタイヤ)』という言葉が流行っていた。「FIRE」とは、若いうちに生涯にかかる分の金融資産を手にして残りの余生を働かずに暮らすという意味だ。
 SNS上に流れてくる嘘か真か「自由」を手にした人たちの話。青い海をバックにピニャ・コラーダを飲んでいる男女の写真を見ていると、経済的な不安からの逃げ道は彼らのように一発逆転ホームランを打ち上げるしかないように思えた。

しかし、このあいだ散歩中に「あれ、待てよ」とひらめいた。

働くことが楽しく、体さえ壊さなければずっと続けていけそうな仕事をしてるなら、すでに経済的な不安から解放されていると言えるんじゃないか、と。老後2000万円問題だって、仕事をリタイヤする前提ならそのくらい必要なのかもしれない。でも、老後も楽しく働けるならば2000万円くらいは稼げる。75歳までやるとしたら週2回営業すればそのくらいにはなる。人間が食べることをやめない限り、ぽたーじゅ屋を必要としてくれる人はいるだろう。

これが前職なら辛い。大量の書類に埋もれる毎日だった。紙に埋もれて人生を終えていくところを想像してゾッとした。1日中書類作業に追われて、それを何十年も続けた先に預金通帳に印字された2000万円は、僕の人生数万時間の代償として安すぎないか。そう思って自分で事業を始めた。やってみて、とても楽しい。これならずっと死ぬまでやりたいと今のところは思えている。体力が衰えて今のようには働けなくなるとは思うけれど、少しずつ営業日数を減らしながらも人が喜んでくれるものを作っていけるなら、リタイヤはしなくてもいい。

そう考えると、今日を健康に暮らし、1杯1杯を美味しく作っていけば、将来への経済的な不安は抱えなくてもいいことになる。



2024年4月18日木曜日

ぽた~じゅ屋✖️韓国⑦ これが正しいご近所付き合い

ゲストハウスの近くに着いた頃、小腹が空いて再びカンジャンシジャンに寄りました。春雨炒めとトッポギを頼んだら海苔巻きも出てきて、夜の12時過ぎに、胃袋がはち切れるほど食べてしまいました。ただ、屋台の白熱灯の下、立ち込める湯気にくるまって食べる韓国料理とマッコリは格別です。
翌朝、起きて散歩をしても、お腹は満腹のまま。当初の予定では、旅の期間中「全ての食事はスンドゥブ」と決めていましたが、市場やストリートで目に入るものを、好奇心に任せて食べていたら、結果、殆どスンドゥブを食べていません。それほど韓国には魅力的な食べ物が多い。

実は昨日の交流会で友達ができました。カフェから居酒屋までずっと僕の隣にいたイジーさんです。彼女にローカルな場所に連れていって貰えるようにお願いしていました。イジーさんには弟がいて、リムさんといいます。「NARUTO 」から日本カルチャーにハマったそうです。独学で日本語検定の一番難しいレベルをクリアしていますが、日本人との接触は僕が初めてだそうです。
今日はイジーさんとリムさんに、おすすめの場所に連れていってもらえることになっています。
待ち合わせは、チョンノ3街駅に午後1時。僕は、張り詰めたままの胃袋を引きずってゲストハウスから2km程度の距離を歩いて向かいました。待ち合わせの場所に着いた時には、二人の姿はなく、遅れているようでした。
10分ほど辺りを散策していると、イジーさんから電話がありました。駅についたというので待ち合わせの場所に戻ると、彼らが青ざめた顔をして立っていました。
僕が「やあ、昨日はどうも!」と、笑顔で軽く挨拶をすると、二人が、「遅れてしまい、誠に申し訳ございません!」と深々と頭を下げました。どうやら来る途中にお腹を壊し、トイレに行っていて乗り換えの電車を逃してしまったそうです。
特に、リムさんの「反省の顔色」が凄まじく、交通事故でも起こしたかのような表情をしています。僕は「いいから、いいから」と彼らをなだめましたが、どうしてもこわ張りがとれない様子。とっさに僕は「韓国に来てから、キムチとか発酵したものを食べてるからか、昨日は8回ウンコしたよ。だから大丈夫!」と、いらぬ自分の腸内事情について話しました。手段はベストでないにしろ、クスッと笑ってくれたので、場は和みました。

イジーさんには「ランチはスンドゥブで」とお願いしていて、彼らの好きなお店を紹介してもらうことになっていました。駅から少し歩いて、メイン通りからちょっと入ったところにあるお店に入りました。ここで僕は赤いオーソドックスな「スンドゥブ」を頼みました。リムさんは少し具材が違うもの。イジーさんは何やら白いものを頼んでいます。
しばらくして、土鍋の中で煮えたぎる三つのスンドゥブがテーブルの上に置かれました。このお店では、ご飯が別の石鍋に盛り付けられています。リムさんが、石鍋からご飯をお茶碗に移す食べ方を教えてくれました。そこにスンドゥブのスープをかけていただきます。
石鍋にこびりついたご飯には、お茶をかけて蓋をし、しばらく蒸らします。
二人は僕にそれぞれのスープを味見させてくれました。イジーさんが頼んでいた白いスンドゥブが絶品でした。摺りゴマでとろみがついたスープに、牡蠣とキノコの旨味が詰まっていて、感動的な美味しさでした。
食べているうちに、蒸らしておいた石鍋のご飯が頃合いになり、蓋を取って、スプーンで鍋肌を引っ掻きます。お茶で柔らかくなったお米を口に運ぶと、まあビックリ、これも絶品です。お茶はジャスミン茶が淡くなったような香りで、塩気はないのですが、お茶とお米の風味がたまらなく上品でした。
(このお茶漬けが極めて美味!)

店を出て、次に僕たちは喫茶店に入りました。彼らが勧める喫茶店はこれまた素敵。古い木造の建物で、内装も古い酒蔵のような造りでした。ここではお茶をいただきました。珍しいものをイジーさんに教えてもらい、言われるがままに注文したところ、とても不思議な、凄い味のお茶でした。かつて喉を痛めたときに飲んだ漢方の味。木の皮に砂糖をかけて噛ったような苦さと甘さ。うーん、飲み干すのが苦しかった。笑
ここでも、イジーさんが注文したお茶が美味しかったです。
(苦くて甘い、あの頃恋のような味のお茶😁)

体が暖まったところで、市内観光に出ます。

古宮の回りをグルーっと歩きました。一緒に歩いていると、彼らにも僕にも発見があります。現地に住む彼らにとって何でもない日常こそ、外国人にとってはとても新鮮だったりします。
N字型の新聞社ビル、バスの運転手に向かって怒鳴っている警官、通りを埋め尽くす屋台、アメリカを「自由の父」として反ムン・ジェイン政権デモをする数千人規模のデモ行進。
リム兄弟と町を歩くと、気になったことをすぐに聞けるので、好奇心が知識へと昇華されていきます。そして、僕の視点を通して、イジーさんとリムさんは、韓国文化の個性を知るのでした。
(NはnewsのN??)
(反ムンジェイン政権のデモ隊。数千人はいた。手に持つ旗には韓国🇰🇷とアメリカ🇺🇸の国旗がプリントされている。彼らにとってアメリカは「自由の父」のシンボル)

歩き疲れて、夕飯は僕の意向でカンジャンシジャンに行くことにしました。やはり現地の人たちと歩くと、市場での体験も何倍も奥深いものになります。興味があっても手が出せなかったものにもチャレンジできるようになります。活きたタコの刺身や、乾燥させた蚕(かいこ)のスープは、見た目は恐ろしいですが、口に入れると美味でした。ブツ切りのタコ足が虫のように皿で跳ねる光景はホラーでしたが、この上なく新鮮で、とても美味しく頂きました。しかし蚕の方は、味は良いものの見た目がどうしても怖くて最後まで食べれず、イジーさんにパスしました。ピーナッツに味も食感も近いです。笑
パスを受けたイジーさんは「美味しいのにぃ」と言いながら、パクパクと何個も蚕が乗ったスプーンを口に運んでいました。
(活タコの刺身。皿の上でウニウニとうごめく。行き交う欧米人はビックリして覗き込んで来る。「踊り食い」の習慣がある日本人にはハードルはさほど高くないかも)
 
(蚕のスープ。現地の人々は普通に食べている。紙コップに200匹ほどの蚕が!味も食感もピーナッツだけど、歯で噛む度に口のなかで蚕が潰れるイメージが回ってしまい、ギブアップ。(^_^;))
(盛りだくさんの刺身の盛り合わせも新鮮!)

楽しい時間はあっという間に過ぎ、リム兄弟ともお別れの時間です。
一緒にいる間、彼らはしきりに「ずっと日本人と会って話をするのが夢だった。だから、ずっと勉強してきました。今日は信じられないくらい嬉しい」と言っていました。前述の通り、彼らにとって僕が初めて言葉を交わした日本人です。
今回の韓国旅では、何人も彼らと同じように、「日本の人々と友達になりたい」という韓国の若者たちに出会いました。
これを読んでくれた皆さんは、偏りのある情報に惑わされることなく、どうかそのことを知っていて欲しいと思います。

イジーさんとリムさんは、今年(2019年)の12月に東京に来て、我が家にステイします。まめに連絡を取り合ってスンドゥブ・サムゲタンパーティーを企画中です。😁
是非、ご参加ください。

おとなりの4歳児


杉並区のメゾネットタイプの家に住んでいる。
メゾネットとは一階と二階を専有していて、おとなりと壁を共有した平屋のような造りになっている建物。
三世帯の戸建てをくっつけたような状態の我が家は通り側。隣にはお父さんとお母さん、子どもが二人(小学生の男の子と保育園に通う4歳の女の子)が暮らしている。
こちらのお宅の子どもがはしゃぐ声や、親御さんに叱られている声がときどき共有した壁から聞こえてくる。当然、こちらが喧嘩する声もあちらに筒抜けだ。
お互いに騒がしいのだけれど、重大な共通点がいくつかあって理解し合えるのでとても仲良くさせてもらっている。
あちらさんも飲食業を自営で営んでいて、音楽もやっているので、夜型の生活や楽器の音もとても寛容にしてもらっている。

おとなりさんが出かけるときは必ず家の前を通る。晴れている日は僕はたいていは窓を開けっ放して網戸にしているので、子どもたちが出かける様子を見ている。喋る声も聞こえる。ある日は息子くんが学校でお友達のズボンを下ろすいたずらをしてお母さんが呼び出されたということで、こっぴどく怒られていた。あるときは虹色のレインコートを頭から被った娘ちゃんが雨にもかかわらず元気に保育園での出来事をお母さんに伝えていた。とても人懐っこい子たちで、ある日「おじさん何してんの?」と話しかけてきたことから交流が始まり、毎日からかわれている。
「おじさん」ってそれまでほとんど言われたことがなかったけれど、この子達に言われて自分が中年の風貌をまとっていることを認めた。お母さんが「お兄さんでしょ」とたしなめていたのでお兄さんで定着してくれないか、という淡い期待もあったけど、ついには僕の中でもオジサンで納得した。
 お父さんの帰りが遅いので、早目にお母さんが経営するカフェの営業を切り上げて子どもたちの送り迎えやお世話をする、というオペレーションになっているようで、お手伝いとはいかないまでも、ときどきうちで預かって面倒を見たりしている。この間はメイク道具を使って娘ちゃんに顔に落書きをされまくった。これが気に入ったらしく、この4歳児はその後も僕の膝に乗ってきて顔に落書きをしてはケタケタ笑っている。3月はお兄ちゃんの誕生日でお母さんから苺のショートケーキが好きと聞いてホールのケーキをプレゼントした。このときからお兄ちゃんは僕のことをオジサンとは呼ばずに「あつしさん」と呼ぶようになった。末恐ろしいヤツめ。
 今日も、お母さんが慌ただしくしていたので娘ちゃんを預かっていた。ボール遊びをして、全身を使って「とあーっ!」とボールを投げたのになぜか後ろに飛んでいったことに二人して大笑いし、外にハンモックを出してゆらゆら揺らしながら時間を過ごした。はちきれんばかりの笑顔になってくれることが嬉しく、遊んであげているのではなく、遊んでいただいているような気持ちにもなった。
ハンモックに仰向けになって月を見て「月って食べたらマズそうだよね」と言ってみたり、「おじいちゃんこないだ死んじゃった」とケロッと言ってみたり、抽象的な詩のよう。散漫だけどハッとさせてくれる。
 子どもってなんて素敵で尊いんだろう。

2020年6月5日金曜日

ぽた~じゅ屋✖️容器の持ち込みは歓迎します!

容器の持ち込みは歓迎します!

【プラスチック容器について】
現在、ぽた~じゅ屋では、プラスチックの容器とスプーンを使っています。「廃・廃プラスチック」についてはずっと考えてはいますが、スープ・ライスなので、滲みない素材、サイズ、コストを考えると、今の容器を手放すことが出来ずにいます。近頃は世の中の廃プラ運動を反映して、容器メーカーも環境負荷の低い製品を作ってはいますが、どうしても漏れるか、しみて溶ける。
 微々たる影響力ですが、現在、ぽた~じゅ屋オリジナル木製スプーンを手製で作っていて、最大で年間1万本のプラスチック・スプーンを減らそうと動いてます。配布の方法については後日。

 さて、お客様からちょくちょく「お弁当箱を持参してもいいか」ご質問をいただきます。もちろん大歓迎です。喜んで対応させていただきます。😊
 ただ、スミマセン、薄利の商いですので、容器分の返金とかは出来ないのです。「こういうのは受益者負担で」とは世間で言われますが、例えば50円、値下げをするだけでも経営が厳しくなります。容器は実際15円/1個ですが、この分だけ返すとしても、10円玉と5円玉の釣り銭を用意するのに両替費用で倍近く嵩みます。
 皆様の、環境問題に対する良心的なアクションを、ぽた~じゅ屋が負担する形で「買い取る」には限界があります。皆様の思いにお任せするしかありません。

もちろん良い容器が見つかれば進んで導入します。

くどくど述べましたが、詰まるところ、皆の容器持ち込みは、歓迎です✌️😀


2020年5月21日木曜日

ぽた〜じゅ屋✖️ぽた〜じゅ屋ができるまで③「ヒッチハイク〜渡る世間は神ばかり〜」」

国道で友達の車から降ろされたことでスタートしたヒッチハイク旅は、

まだ寒い三月でしたので、夜は特に過酷でした。

所持金は5千円だけだったので、

宿に泊まるには路上で歌って投げ銭を稼ぐしかありません。

しかし、中々お金は集まらず、野宿するしかありませんでした。

凍るような寒さの日もあり、このままでは死んでしまうので、

昼は日当たりの良いところで眠って、

夜はヒッチハイクして移動することにしました。

そうすれば乗せてもらった車の中で眠ることが出来ます。

最初は、中々ゲットできなかったヒッチハイクも、

段々とコツをつかんできました。

コツは、まず停車している車のドライバーに声をかける。

この時は、家族づれなど、複数人のグループに対して声をかける方が安心されやすいです。

停車中の車がなければ、笑顔とギターを見せて安心感をアピールをする。

「音楽で旅をする」ロマンに共感してくれる人は結構居ます。

「楽しそうなヤツだ」と相手に思ってもらえるのが肝心です。

この旅を通して、全部で50台以上の車に乗せてもらいましたが、

中にはおうちに泊めてくれて、ご飯まで食べさせてくれる人も居ました。

特に広島でお世話になったお宅では本当によくしていただいて、

あの時、あったかいご飯、お風呂、ベッドのありがたさを感じました。

数日前にいた大阪では雪が降ってきて、まったく車がつかまらず、

心が崩壊して、空に怒鳴っていました。

「クソォ〜、死んじまうぞ、雪やめよ。バカやろぉ〜」と。

寒さって、本当に怖いです。

あっという間に気力を奪い、精神的にも肉体的にも追い込まれていきます。

僕は、もの凄い寒かった大阪の夜とのコントラストがあって、

温もりがどれだけ人に安心感を与えるのかを知りました。

そして、今だに葉物野菜たっぷりの鍋を食べると、

あの日の食卓とリンクしてホッとします。

そんなこんなで、大勢の人の善意のリレーによって

静岡→名古屋→大阪→神戸→姫路→広島→福岡→鹿児島→大分別府温泉→フェリー→四国をグル〜っと→鳴門海峡→神戸→大阪→名古屋→静岡→東京の自宅

という風に、西日本を回って帰ってくることが出来ました。

「渡る世間は鬼ばかり」って嘘ですね

けっこう世の中、優しい人がいます。

少なくとも50人は優しい人がいる。










ぽた〜じゅ屋✖️ぽた〜じゅ屋ができるまで②「ギター片手にヒッチハイクの旅へ」

高校卒業を控えた時期、

父から親族に起きた大問題が発表されました。

叔父が不動産で失敗し、自己破産したため我が家も無事ではないと。

そのせいで、父が僕の大学費用のために貯めていたお金も諦めなければなりませんでした。

そういうわけもあって、「取り敢えず大学行く」的な選択肢は無くなっていたのです。

自腹で行きたいと思えるほど、僕にとって大学は魅力的ではありませんでした。

担任の先生に「芸能人になる」と言い放ったのは、

「特に定まっていないなら、とりあえず進学すれば良い」という、

学校側のそれとない圧力をかわしたいからでもありました。

カッコよく言えば、「自由を求めて」いたのですが、

実際は「どうしたら良いのか分からなかった」のです。


卒業後、いくつかオーディションを受けてみました。

いくつかのタレント養成所にも通ってみましたが、

中々芽は出ず、「このままで良いのか」という迷いは消えなかったです。

そこで、どこかで自分にけじめを付けなければと思い、

「歌で稼ぎながらヒッチハイクで鹿児島まで行ってこれたら、真剣にプロを目指す」と決めました。

カッコよく聞こえるかも知れませんが、

当時放送されていた「電波少年」というバラエティ番組でやっていた、

お笑い芸人がヒッチハイクで外国を旅する企画に感化されただけです。

しかも、実際に決行したのですが、

行くと言い切ってから、「まだ寒い」とか「体調が、、」とか、

理由をつけては尻込みする僕に対して、

シビれをきらした友達に拉致されるように車に乗せられ、

静岡県の知らない国道に置き去りにされたのを皮切りに、

ヒッチハイクの旅がスタートしたのでした。

辺りは真夜中。

行き交う大型トラックの流れを眺めて、

「オームの群れに囲まれたナウシカみたいだなぁ」と考えているうちに

段々と覚悟みたいなものが固まってきて、

画用紙にマジックで最初の行き先を書きました。

とりあえず、静岡県で知っている地名。

「沼津」

西に向かっているのに、

その時いた場所から東側の地名。

地理の授業中、寝てたなぁ、、、、




2020年5月20日水曜日

ぽた〜じゅ屋✖️ぽた〜じゅ屋ができるまで①「どうしようもない学生時代」

「ぽた〜じゅ屋ができるまで」シリーズと銘打って、

僕がこれまでどういう人生を歩んできたかを書いていきます。

ブログに載せるつもりなく書いていたのですが、

書いてるうちにバカバカしいことをいっぱいしてきたのを思い出して、

自分でも笑えてきたので、

皆さんがお暇な時の読み物にしてもらえたら嬉しいです。


1980年7月15日、

新宿区落合の病院で未熟児ギリギリで産まれました。

「敦煌(中国の砂漠旧都市)のように大きな志を」という意味で「敦志」と名付けられました。

親族で男の子は僕だけだったので、祖父母には可愛がられました。

幼少期は元気の良い子でしたが、臆病で、体も小さく、同級生によく意地悪されました。

5歳まで足立区にいて、そこから新宿区に引っ越して来ました。

それからずっと歌舞伎町から歩いて10分くらいのところで育ちました。

中学は地域の学校に通い、高校は都立高校。

目立つグループの子たちと一緒にいる事もありましたが、

僕自身はさほど存在感のある方ではなかったと思います。

高校生になると、勉強に興味を持てなくなりました。

授業には遅刻するか、来ても寝ているかだったので、

先生や周りの迷惑になってはいけないと思い、

授業には出来るだけ出席せず、校庭でサッカーばかりしていました。

今考えると、あのサッカーには、男子も女子も、同級生や後輩、真面目な子やヤンキーも空き時間に校庭に出てきて一緒にプレーしていたので、僕のコミュニケーション能力はあの時に養われました。

ただ、ほとんど勉強していなかったので、頭は相応に悪く、

思い出すだけで赤面する思い出ばかりです。

お話しできる範囲ですと、

学校内の自販機の隣に、「食う缶鳥(くうかんちょう)」という、間抜けな口に空き缶を入れると10円が戻ってくる機械が導入された時、僕と友達はすぐに、町中から空き缶を拾い集めて小銭を稼ぎ始めました。道端の缶がなくなると、ゴミ箱に手を突っ込み集め、地域の人に「自由研究で使うから」と嘘のお願いまでして集め、毎日300缶以上を「食う缶鳥」に食べさせては10円玉と交換していました。

当然、自販機で売れている数十倍も換金されていることは学校内で問題になり、一週間ほどで「食う缶鳥」はいなくなりました。

毎日サンタクロースみたいにパンパンの袋を持ち運んでい他ので、犯人は誰の目にも明らかで、すぐにバレました。

怒られるかと思いきや、「街をキレイにしたかった」と言い張っていたら、先生方も叱るに叱れず、何の罰も受けずに済みました。

ただ、周りの目はしばらく刺すように鋭かったです。

馬鹿だなぁ、、、。


恋愛の方はというと、頭が悪いとやっぱりだめでしたね。

僕に好意を持った子が、勇気を出して話かけてきてくれても、

一つ二つ言葉を交わすだけで頭の悪さがバレてすぐに相手にされなくなり、

やっと彼女らしい子が出来ても、あっと言う間にフラれました。

あぁ、思い出したくない。。。。。


学生時代は自分のことも、世の中のことも何も分かってなかったです。

将来のことだって考えていなかったし、

たくさんの人に迷惑をかけました。


高校三年生の進路相談でも、

担任の先生に「卒業したら芸能人になります」など意味不明なことを言って、

話が進まず。

そのまま卒業しました。

こんなどうしようもない高校生、

本来なら卒業なんて出来ないのかも知れませんが、

奇跡は起こるもので、

学校側の「こんな奴、置いておきたくない」という思いと、

僕の「こんなところに居たくない」という思いが重なり合って、

無事に卒業することが出来ました。


すいません。

これ以上は公では語れません。

興味がある方は個別でお話しします。 笑