2020年5月20日水曜日

ぽた〜じゅ屋✖️ぽた〜じゅ屋ができるまで①「どうしようもない学生時代」

「ぽた〜じゅ屋ができるまで」シリーズと銘打って、

僕がこれまでどういう人生を歩んできたかを書いていきます。

ブログに載せるつもりなく書いていたのですが、

書いてるうちにバカバカしいことをいっぱいしてきたのを思い出して、

自分でも笑えてきたので、

皆さんがお暇な時の読み物にしてもらえたら嬉しいです。


1980年7月15日、

新宿区落合の病院で未熟児ギリギリで産まれました。

「敦煌(中国の砂漠旧都市)のように大きな志を」という意味で「敦志」と名付けられました。

親族で男の子は僕だけだったので、祖父母には可愛がられました。

幼少期は元気の良い子でしたが、臆病で、体も小さく、同級生によく意地悪されました。

5歳まで足立区にいて、そこから新宿区に引っ越して来ました。

それからずっと歌舞伎町から歩いて10分くらいのところで育ちました。

中学は地域の学校に通い、高校は都立高校。

目立つグループの子たちと一緒にいる事もありましたが、

僕自身はさほど存在感のある方ではなかったと思います。

高校生になると、勉強に興味を持てなくなりました。

授業には遅刻するか、来ても寝ているかだったので、

先生や周りの迷惑になってはいけないと思い、

授業には出来るだけ出席せず、校庭でサッカーばかりしていました。

今考えると、あのサッカーには、男子も女子も、同級生や後輩、真面目な子やヤンキーも空き時間に校庭に出てきて一緒にプレーしていたので、僕のコミュニケーション能力はあの時に養われました。

ただ、ほとんど勉強していなかったので、頭は相応に悪く、

思い出すだけで赤面する思い出ばかりです。

お話しできる範囲ですと、

学校内の自販機の隣に、「食う缶鳥(くうかんちょう)」という、間抜けな口に空き缶を入れると10円が戻ってくる機械が導入された時、僕と友達はすぐに、町中から空き缶を拾い集めて小銭を稼ぎ始めました。道端の缶がなくなると、ゴミ箱に手を突っ込み集め、地域の人に「自由研究で使うから」と嘘のお願いまでして集め、毎日300缶以上を「食う缶鳥」に食べさせては10円玉と交換していました。

当然、自販機で売れている数十倍も換金されていることは学校内で問題になり、一週間ほどで「食う缶鳥」はいなくなりました。

毎日サンタクロースみたいにパンパンの袋を持ち運んでい他ので、犯人は誰の目にも明らかで、すぐにバレました。

怒られるかと思いきや、「街をキレイにしたかった」と言い張っていたら、先生方も叱るに叱れず、何の罰も受けずに済みました。

ただ、周りの目はしばらく刺すように鋭かったです。

馬鹿だなぁ、、、。


恋愛の方はというと、頭が悪いとやっぱりだめでしたね。

僕に好意を持った子が、勇気を出して話かけてきてくれても、

一つ二つ言葉を交わすだけで頭の悪さがバレてすぐに相手にされなくなり、

やっと彼女らしい子が出来ても、あっと言う間にフラれました。

あぁ、思い出したくない。。。。。


学生時代は自分のことも、世の中のことも何も分かってなかったです。

将来のことだって考えていなかったし、

たくさんの人に迷惑をかけました。


高校三年生の進路相談でも、

担任の先生に「卒業したら芸能人になります」など意味不明なことを言って、

話が進まず。

そのまま卒業しました。

こんなどうしようもない高校生、

本来なら卒業なんて出来ないのかも知れませんが、

奇跡は起こるもので、

学校側の「こんな奴、置いておきたくない」という思いと、

僕の「こんなところに居たくない」という思いが重なり合って、

無事に卒業することが出来ました。


すいません。

これ以上は公では語れません。

興味がある方は個別でお話しします。 笑





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